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この試煉の時に

 これは試煉の時である。日本国民の平和思想が試煉にさらされている、と思う。

 2013年の参議院選挙および2014年の衆議院選挙で自民党に大勝させ、公明党にも少し勝利を与えた時に、この2つの政党が憲法の手続きを無視して改憲まがいの行動に及ぶことを選挙民が支持していたとは思われない。しかしことは政治の問題だから、こういう政党がそうする可能性は常にあった。

 むろん、問題は何より、法律学者の大多数が違憲と判定するような法案を違憲ではないと強弁し、(それゆえに当然ではあるのだが)改憲手続きを踏まえずに改憲まがいのことをやろうとする政府与党にある。他方で同時に、そうするかもしれない政権に対して「静かな支持」を与えていた国民の側にも省みるべき点はなかっただろうか、と思う。

 背信する側が背信される側より悪いのは明らかである。しかし平和憲法を支持する国民が、どういう政治的選択をしてもこの国の平和主義が脅かされることはない、と信じ込んでいたのだとすれば、それもナイーブではあるだろう。

 「静かな支持」というのは、加藤周一氏が戦前のドイツにおけるナチス支持について用いた言葉である(加藤周一「ゴットフリート・ベンと現代ドイツの『精神』」)。すなわち、ドイツ国民の多数はナチスを狂信的に信奉していたわけではなく、まじめに国民としての務めを果たし、ナチスを「静かに支持」していた、と。

 それと同じことが現在の日本で起きているとまで単純化するつもりはない。しかし、国民の多くが戦後日本の平和を尊いと思い、永久に戦争を放棄した憲法の恩恵を享受する一方で、それを維持することは安楽なことではないとどこまで覚悟していたか、それが1つの問題ではあった。

 単なる自然の恩恵ではなく、みずからの選択で維持するということは、そのことを思想の問題として突きつめるということである。それに対する攻撃を敏感にかぎ取り、それに抵抗する態勢を整えておかねばならない。それを放棄するより維持することのほうが、私たちと世界にとってよりよい選択であり、私たちの矜持を保つ最善の選択なのだと説得的に語る言葉を持っていなければならない。侵略や植民地支配を反省するだけでは足りず、それに対抗するものとして選び取ったこの平和主義についても、思想として内面化する必要があったのだ。それがはたして十分であったかどうか。いまが試煉の時である。

 とは言うものの、筆者は懐疑一辺倒になっているわけではない。8月30日、雨に打たれながら国会議事堂前に立ちつくしていた。その時、抗議の人々が歩道からあふれ出て車道を埋めた光景を目にし、そして若者を中心に本当に多くの人々が反対の意思を表明する声を聞き、ここにはひとすじの希望があると思ったのだ。

 遅きに失したかもしれないが、この事態に臨んでまで「静かな支持」にとどまるのはやめよう、と考える国民がこれほどにもたくさんいる。ここでようやく目覚めて平和主義を思想化し始める人もいるだろうし、遅かろうが何だろうがこのような立憲主義と民主主義の蹂躙は認めるわけにはいかないという人もいるだろう。諦めずに声を上げ続ける人たちの間には、70年を経て、すでにある種の「平和憲法共同体」ができ上がっていたのかもしれない。

 そういう共同体に加わる意思はないという国民もいるだろう。だがその人たちもまた、これほど大きな根本規範の改定についてはまっとうな手続きを踏むよう求める義務がある。その人たちが平和主義を否認する思想的自由を持つのだとしても、ついでに立憲主義と法の支配と民主主義までも否定する権利を持っているわけではないからである。

 ここまで書いたところで、山口繁・元最高裁長官が一連の法案を「違憲と言わざるを得ない」と論評したというニュースが飛び込んできた。政府与党の要人が、「合憲か違憲かを判定するのは憲法学者ではなく最高裁判所だ」とする言明はすでに何度も聞かされている。打撃を避けたい政府与党からはさっそく、すでに退官した一私人の言葉にすぎないと、これを無視する論評が出された。

 しかし5年も《憲法の番人》の長を務めた人の法的判断の価値が、現職か退官後であるかによって大きく変わるものだろうか。これは法の論理を尽くして考え抜いた専門的な判断であり、法解釈の問題であって、個人の政治的信念ではない。あらゆる異論を無視し続ける政府与党の姿勢にも驚かなくなりつつあるが、このような専門的な判断にまでも耳をふさぐのだとすれば、この政権は誰に対してどのような責任を果たそうとしているのだろうか。


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