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「声なき声」と「地域民主主義」

 リレートーク、はじめます。

 政経有志の会の事務局をつとめます小原です。わたしたちのウェブサイトへようこそ。これからこのウェブサイトその他を活用して、安保関連法案廃案のためにあれこれやってまいります。このリレートークのサイトでは、もの申したい教員が声明文だけでは語れなかっためいめいに思うところなどを硬軟とりまぜ、順々に書き込んでいきます。では、まずわたしから。最初から長くてすみません。

*  *  *

 いまから55年前の1960年5月、6月ころ、日米安保条約改定反対のデモ隊が国会周辺を席巻していたときのことである。安倍晋三首相の母方の祖父である岸信介首相(当時)がそのデモ隊に冷たい視線を向け、「わたしは『声なき声』に耳を傾けたい」「(声なき声の)普通のひとは後楽園で野球を見たり、銀座を歩いたりしている」と語ったとされる有名な話しがある。

 この夏、ある原稿を書く必要から、この逸話を一次資料に近いもので確かめたかったのだが、「後楽園」発言のほうはついにあきらめた。確かに『岸信介の回想』(文春学藝ライブラリー)や『岸信介証言録』(中公文庫)を見ると、岸自身が回顧談のかたちで「後楽園」や「銀座」を引き合いに出して話しているのが確認できるのだが、それを同時代の環境のなかで、いつどこで語ったのかについては、目ぼしがつかないのである(*調子に乗ってすみませんが、読者でわかる方がいたら教えてください)。インターネットで検索をかけると岸が「神宮」云々と述べたという珍情報も見つかって、さすがにそこまで行くと、空振り感というより苦笑を覚える。岸はジャイアンツファンだったようだから、神宮球場をたとえに出す可能性はまずない。

 「声なき声」発言は、それほどの苦労なしに出所を確かめられた。1960年5月28日の首相記者会見で語り、その要旨が同日付けの各紙夕刊1面トップで報道されている。今回、それを初めて読み、岸が国会周辺の動きを「特定の組織力により、特定の人が動員された作られたデモ」だとして、議会制民主主義を危機にさらすそうした「声ある声」には屈しないと高言していることもわかった。まるで、安倍首相のいまの言動を見聞きしているかのような錯覚を覚える。ちなみに読・朝・毎の各紙のうち、この記者会見をいちばん批判的な姿勢で伝えたのは読売新聞で、こちらのほうは隔世の感がある。

 「声なき声」発言をクサしたくて、「冷たい視線」とか「高言」とかいう言葉をこれまで使っているのだが、しかし、この発言には岸の強がりだけでなく、おそらく相当の真実が含まれていたことも見逃すべきでないと思う。そのいちばん端的な証拠として、安保改定から5ヶ月後の1960年11月、自民党が総選挙で467議席中300議席を得る大勝を収めた事実をあげておきたい。自民党総裁が、低姿勢の池田勇人へと代わっていたにしてもである。

 岸とは政治的に正反対の立場から、後楽園や銀座など、要するに国会周辺の非日常とはかけ離れた場所での平穏ぶりに着目し、そこに危機感を抱いた政治学・行政学の研究者グループがいた。今年亡くなった松下圭一や、先に鬼籍に入った阿利莫二、髙木鉦作らである。彼らは1960年8月から9月にかけて、杉並区の地域政治を実地調査する。そして、そこに見出したのが「地域における民主主義の未成熟」「東京にも『ムラ』がある。国会周辺での三〇万といわれるデモの高揚も、また居住地域を素通りしている」現実だった。現状変革のためには国会周辺だけに運動をとどめず、日常の地域から変えていかなくてはならない。つまり「地域民主主義」の確立が急務である。彼らはそのように診立てた(雑誌『都政』1960年10月号)。

 さて、いま現在の状況である。自民党周辺からは、国会正門前で高まる安保関連法案批判の声に対して「声ある声」と決めつけ、侮蔑する類いの発言が漏れ聞こえてきている。その一方で、後楽園や銀座や杉並や、そしてわたしたちの足もとの早稲田大学はどうだろうか。大学がいくら夏休み、夏枯れの時期とはいえ、この国になにごとも起きていないかのようにあまりに平穏ではないだろうか。

 「地域民主主義」。あくまでもわたし個人に関してなのだが、この運動を始めようと思い立った出発点は、基本的に松下圭一らと同じ問題意識にある。

 最後にもう一つだけ。政治の数の力学からいうと、安保関連法案が今国会で可決・成立する可能性は小さくない。いや、率直にいえば大きい。だから、いまさら反対運動をしてみても意味がないではないか。そうした見方をするひとがいても不思議はない。しかし、わたしは、その見方をじつは政治のリアリズムに欠けた安物のシニシズムだと思う。

 日米安保条約や60年の安保改定があったから、その後の日本の経済的繁栄があったのだ。そのように主張する安倍首相を含む保守系筋の言説がある。だが、それに対して日本政治史研究の三谷太一郎はこういう。60年安保「反対闘争」の歯止めがあったからこそ、安保条約が日米軍事同盟の側面ではなく、経済協力の側面に力点を置いて改定・運用され、その後の経済的繁栄がもたらされたのだ(朝日新聞2015年7月25日付の座談会記事)。さすがの慧眼というほかないだろう。

 運動論的には「かりに可決・成立した場合でも」云々とは表立っていいにくいのだが、その場合も含めて、いま、運動を大きく深く広げることには重要な意味があると考える。早稲田でできること、すべきことはなにか。よくよく考えながら進んでいきたい。早稲田政経内外の研究者、学生、卒業生、市民の皆さんに広く賛同と連帯を求める。


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