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「戦後レジーム」の更新にむけて

 いま参議院で審議されている安保関連法案の最大の問題は、言うまでもなく、それが違憲だということである。憲法とその原理は新たな解釈によって活性化されていくが、集団的自衛権の行使を容認する政府解釈は、その解釈が必要となる十分な根拠をいまだに示しえていない(繰り返されるのは「安全保障環境の変化」だけである)。そして、それが従来の政府の確定解釈とは根本的に異なるものであり、法の安定性を損ない、憲法規範を実質的に空洞化するものであることは、多くの憲法学者が指摘するとおりである。

 周知のように、安倍首相の持論は「戦後レジームからの脱却」だが、今回の法案が制定されることになれば、まさしくこのレジームが根底から覆されることになるはずである(「脱却」の先にどのようなレジームが構想されているかについては、「自民党憲法改正草案」をご覧いただきたい。それは「普遍」ではなく「特殊」に立脚するレジームである)。

憲法によって権力の濫用を抑制されるべき政府(行政権力)が、当の憲法を恣意的な——他から統制を受けることのない——解釈によって改訂するようなことが認められるならば、日本の「戦後レジーム」にとどまらず、それが体現してきた立憲デモクラシーの存立自体が脅威にさらされることになる。

 デモクラシーの観点から見れば、安倍政権は「選挙独裁」の特徴を色濃くもっていると言える。この政権は、もっぱら数を頼みとし、異論に対して理由/エヴィデンスを挙げて応答するという、政府に求められるアカウンタビリティを端から蔑ろにしている。実際、安倍首相が、現在の多数意志さえあれば何でも可能だという思想をもっていることは、先に憲法96条を改憲しようとした——両院による憲法改正発議を単純多数に引き下げる——さいに明らかになった。

 もちろん民主的正統性にとって多数意志による同意は不可欠である。しかし、憲法は、歴史上繰り返されてきた「多数の暴政」(A. トクヴィル)を避け、その時々の多数意志にフリーハンドを与えないための制度である。そして、人々の政治的意志が尊重に値するのは、それが法や政策を正当化する理由を検討する公共の議論によって十分に媒介されるときである。熟議による理由(理性)と意志との媒介こそが、民主的正統性が成り立つための条件であり、政治社会の根幹をなす制度の改編を導く今回の法案についてはなおさらそのことが当てはまる。

 各種の世論調査は、市民の多くが、国会においても公共圏においても、審議や議論が不十分であるとの判断をもっていることを示している。おそらくあまり知られていなかったと思われる「立憲主義」という考えがこの間しだいに理解されてきたように、私たちはいま、憲法と民主政治についてあらためて学習し、それについて意見を交換する貴重な機会を手にしている。違憲立法の廃案を強く求めるとともに、この機会を活かし、次に繋げていきたいと思う。


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