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アジアの戦争、紛争地の現場から考えたこと

 過去(歴史)から学ぶことなくして、私たちは未来を構想することはできません。残念ながら、安保法案を主張する安倍政権は、歴史的な事実から学ぶ意思を持たず、現実を直視することを通して、未来を語るという「力」も備えていないようです。  彼らの言動から、安全保障や憲法を議論する以前の歴史認識、世界観そのものの歪(ゆがみ)を強く感じます。自己を相対化できず、「反知性主義」ともいえる流れは、民主主義を内部から破壊しながら、やがて私たちの社会を退廃と破滅へと導くことになります。いま歴史の大きな分岐点にあることは間違いありません。  この稿ではアジアの国々の戦争、紛争地の現場を歩きながら学んだことを安保法案に絡めて、二つだけ挙げてみます。  ①軍隊は人々を守りません。軍隊が守るのは、国家であり、軍隊そのものです。軍事独裁国家はむろんのこと、社会主義国家も、民主主義国家であっても、軍隊の本質は変わりません。戦前も戦後も同じです。多くの歴史的局面において、軍隊はその時々の政府や権力を守るため、自由や民主的権利を求める人々への暴力装置として使われてきました。これはアジアにおける歴史的な事実です。 「軍は人々を守る」というのは、幻想です。  ②アメリカという国とアメリカ的秩序、正義への大いなる疑問もあります。アメリカは民主主義を国家の根本に据えながら、同時に建国以来、250回以上も海外で軍事行動を展開してきたウルトラ軍事国家です。  中南米はむろんのこと、アジア地域に限っても、アメリカは国際法を無視する形で軍事力(暴力)を行使してきました。ベトナムでも、イラクでも、アメリカの掲げる正義(往々にしてアメリカの国益と同義)のため、多くの人々の命が奪われています。 「日米軍事一体化」を進める前に、アメリカの行ってきたこれまでの武力行使に対する歴史的な検証を行わねばなりません。 「日米同盟」の強化は民主主義、自由、法の支配といった価値観の破壊をもたらす可能性を孕(はら)んでいます。過去の検証なき軍事力のアメリカ依存、追随はきわめて危険です。  私は完全な非暴力論者ではありません。戦争、紛争の現場において、むき出しの暴力を抑えるため、外部からより強力な暴力をぶつけるしかない、という事態、現実に直面することがあります。人々を「救済する」ための暴力です。ただ、暴力の行使は暴力的解決を回避するための最大限の努力を行った後のギリギリの選択でなければなりません。大きな苦悩の末の決断となります。  今回の安保法案において、このような国際政治の過酷な現実を踏まえた議論はほとんど行われていません。政府与党の主張、認識は、私の目撃した国際紛争の現実とはまったく乖離した「机上の空論」に等しいものです。あまりにも粗雑と言わざるを得ません。 また安保法案の根拠とされている東アジアにおける脅威の存在(中国、北朝鮮など)に関する認識も、多分に情緒的、扇情的であり、多角的で冷静な分析に基づいたものとは思えません。少なくとも緊張緩和、リスクの軽減に向けた外交のあり方、選択肢をもっと議論すべきです。  過去から学ばず、ひとりよがりで底の浅い歴史観、世界認識を土台にした安保法案は多くの瑕疵、問題点を含んでおり、その成立は将来、私たちの社会に修復できない致命的な禍根をもたらすことになります。  いま未来に対する責任を私たちは果たさねばなりません。


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